猫とワタシ

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背中合わせのNight&Day

この記事のみを表示する人間の大切な質

LIFE

近所に住む男性Aさんと男性Bさんは古くからの友人でとても仲がよい。
Bさんには幼い娘がいて、Aさんはその娘が通う幼稚園の先生である。
穏やかな性格のAさんは、園児たちに大人気らしい。
しかし、ある日恐ろしい噂が飛び込んできた。
Aさんが、園児のひとりに性的虐待をしていたのだという。
虐待を受けていたのはBさんの娘で、娘さん自身が園長先生にそのことを告白したそうだ。
Aさんはそれを否定したが、他の園児たちからも次々に証言があり、警察に連行された。
が、証拠不十分で数日後に釈放された。
Aさんは責任を問われて職を失ったが、その後もこれまでどおりこの町で暮らしている。
めったに見かけることはないけれど、近所のスーパーでたまにばったり会うことがある……

というような状況のときに、果たして自分はどうするのか。
汚らわしいものを見るような目つきになるのか。
Aさんが買い物をしていること自体、腹立たしく感じるのか。
町から出て行ってほしい、消え失せてくれと願うのか。

もし性的虐待を受けたと告白したのが自分の身内だとしたら、Aさんに対する感情や行動は当然そんなものじゃすまないだろう。

本当にAさんは無実で、Bさんの娘が悪気なくついた嘘(作り話)だったのに、「子供がそんな嘘をつくわけがない」と信じ込み、Aさんの主張にはいっさい耳を傾けない。
自分もそういうふうになるのだろうなと思った、『偽りなき者』を観て。

映画を観ている間は冤罪被害者である主人公に感情移入して、彼が受ける数々の理不尽な仕打ちに対して痛みを感じたり、憤ったり、冤罪が晴れることを切実に祈ったりするのだけれど、立場が変われば彼のことがただのおぞましい変質者にしか見えなくなるということなんだよな、と。
そして自分の中にある正義という名の下に裁いて罰したくなるのだろう、直接的であれ間接的であれ、なんらかの形で。怖いけど。

この映画はギンレイホールの2本立てで観て、同時上映作品は『ハンナ・アーレント』だった。
こちらもいろいろと身につまされた。

ハンナ・アーレントは、『ザ・ニューヨーカー』に連載したナチス戦犯のアドルフ・アイヒマンの裁判のレポートについて世間から激しい非難を浴びる。
アーレントが伝えたいことは“悪”というものの本質についてであって、アイヒマンを擁護しているわけでもなければ、ユダヤ人の立場や気持ちをないがしろにしているわけでももちろんない、ということを映画を観ているわたしは感じることができる。
でももしその当時自分がアーレントの記事を読んで傷つき、憤り、非難する側であったとしたら、アーレントがどんなに言葉を尽くして説明してくれたとしても、やっぱり聞く耳をもてなかったのではないか。記事をそれ以上深く読み込もうともしなかったのではないか。

一緒に語るようなことではないのだけれども、原発事故以降の放射能を巡るさまざまな問題を通して、しばしば個人的に抱えているもやもやが、ちょっと客観的に見えたような感じだった。
できるだけフラットな目線をもちたいなどと願いながらも、自分の信じるほう、正しいと思うほうへと突っ走り、信じられないこと、間違っていると思うことにはつい厳しく批判してしまう。
「人は自分の見たいものを、自分の見たいようにしか見ない」
これは原発事故以降にまわりでよく聞くようになった言葉だけれど、自分も自分の見たいものを見たいように見ているだけなのだということを忘れないようにしなくては……と、映画の本筋とは離れた部分で痛感しました。
って、小学生の感想文か……

パンフレットのシナリオ採録より、アーレントさんの言葉。
「人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事をね」