どっすん#LIFE 小学生の頃、体育の授業でどうしても出来なかったのが 鉄棒の逆上がりと、跳び箱だった。 卒業するまでずーっと出来なかった。 逆上がりは先生に手伝ってもらえばかろうじて回ることは出来たが、 跳び箱はもちろん誰にも手伝ってはもらえない。 いつも情けなく、跳び箱の台上の真ん中あたりで 尻もちをついてしまうのだった。 もっとも苦痛を感じるのが跳び箱のテストの時である。 クラス全員がしーんと見守る中で、 ひとりずつ順番に跳ばなくてはならない。 跳べずに尻もちをつく私のことを、みんなが後ろでじっと見ているという状況が 精神的にきつい。 冷ややかな目で笑われているんだろうな、とか、 だっせえ~と思われているんだろうな(当時はそんな言葉はなかったけれど)、とか、 つい被害妄想的にいろいろ考えて気にしてしまう。 そのことでクラスメイトから何か言われたことはなかったのだけど、 自分でもかっこ悪いなぁという自覚はかなりあった。 中学校に入ると、体育の授業から鉄棒と跳び箱はなくなった。 そうなると調子のいいもので、自分が跳び箱を跳べないという事実も 自分の中でどうでもいいことになる。 跳び箱が跳べなくたって人生に何の問題もないじゃーんと あっさり開き直ることもできたのだった。 実際、今も、何の問題もない。よね?(爆) そんな中学生活にもなじんできたある日、 小学校時代の同級生の男子と何かの弾みで 軽い口ゲンカになったことがあった。 だんだんケンカがヒートアップしてきた時に、 興奮したその男子が突然私に向かってこう叫んだ。 「うるせー、この、どっすん!!」 ど、どっすん? 私:「どっすんって、なによ!?」 男子:「おめー、小学校ん時、跳び箱跳べねがったべ。 おめーが跳び箱の上に尻もちをつく度に、 みんなで『どっすん!』って声を合わせて呼んでたんだー。 おめーは『どっすん!』だったんだ!」 どっすん……。 私が跳び箱の上に尻もちをつく度に みんなで声を合わせてそう呼んでいた……(リピートアフターヒム)。 笑った。 笑えた、どっすん、な自分を。 心の中に何やらあったかいものがじわじわと広がっていった。 跳べずに尻もちをつく、だっさい私の姿をみんな結構何気に やさしさとユーモアを持って受け止めてくれていたんだなぁ、 とその響きから前向きに感じた。 ひとりきりで孤独だとさえ感じていた跳び箱のテストだったけど、 決してそうではなかったんだな、とも気づいた。 あの頃、跳べる跳べないということ以上に、 自分自身の劣等感でどこか心を閉ざしていた。 それが思わぬ笑いによってようやくゆるやかに解き放たれていく。 その時本当に「どうでもいいこと」として ダメな自分を自分で受け入れることができた気がする。 「だっせえ~」と思われているのは同じだとしても、 「どっすん」、だなんて、なんだか愛嬌があるじゃないかぁ(←自分で言うか?)。 なぜか急にそのことを思い出して、アホみたいに微笑ましい気持ちになった。 なかなか気づくことができずに今も閉ざしてしまうことがあるけれど、 自分が思うよりも人の心やまなざしはずっと温かく、 そういう大きなものに見えないところで守られて支えられて ここまで生きてこられたんだな、なんてふと改めて考える。 ありがたいなと心から思う。
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